ライター 長井の気ままな生活

気ままなライター生活を綴ります

学校が2050年に1/3になるそうです。

www3.nhk.or.jp

学校が2050年には次々と統廃合になり、1/3になるそうです。東洋大学の根本祐二教授の試算です。

実は、子どもがいないせいか学校には思い入れがありません。これがお子さんのいる家庭であれば別なのかも知れません。

これだけ少子高齢化が続けば、ある程度は予測はしていたのであんまり驚いていません。私は都市はよりコンパクトにしていくのも時代の流れだと諦めています。

どっかのニュースで見たことがありましたが、田舎の学校廃校反対運動をやっていた方の話を聞く度に、「それじゃ地域住民が負担できるのかな」と割と冷ややかに見ていました。

出身大学が消滅すると悲しくなりますが、小中高がなくなったとしても、実はなんとも思いません。

これは私が荒れた学校にいて、当時完全に学級崩壊して、学校の窓が割った人もいたり、教師に暴力を振るう人を見て母校に愛着を持てと言われるのは無理があるのです。

カツアゲも日常茶飯事。暴力団は、不良少年に事務所に来いと校門の前で待機してリクルート活動はしても教師はとめられない。暴力団員を注意した教師は脅されて黙っていました。

学生は他校との喧嘩に明け暮れ、ほとんど応仁の乱の状態でした。今は落ち着いたようですが。

なくなるのは学校だけではなく、橋とかトンネルなどの社会インフラもどれだけ維持できるのかと思っています。

国も地方も財源もありません。公共事業の必要性は感じていますが、すべての公共施設を維持するのは財源的に難しく、インフラや施設のリストラはいつか行なわなければなりません。

ただ、残すべきインフラや施設を検討した際、地元政治家の抵抗が予想されます。今の日本はあと10年もすれば、インフラの荒廃と過疎化が進展することで、日本全体が本格的に衰退期に入ります。

地域、学校、インフラさまざまなものが衰退していく中で、どう生きるかという自分でもよくわかっていないのです。

これは私が特別な悲観主義者ではなく、今あるデータを考えればわかりきったことです。特に一番きついのは超高齢化社会の到来です。

新聞についてもどこの新聞も70歳くらいの人が読んでいるのでしょう。全国紙の朝毎読売産経のどこが残るかは関心はあります。

出版社も同じで、どこもきついです。情報にお金を払わなくなったのでしょう。

私も新聞購読していませんし、図書館で無料で読んでいます。今の稼ぎでは新聞購読する余裕がないからです。

そして地域も年々、コンパクト化して高齢化していきます。

地域に元気で遊ぶ子どもがいない、いるのは、老人と中年ばかり。誰が地域の担い手になるかというのは大きな問題です。

根本教授の試算を見て特別な感想はないのですが、今後の日本については、

「なるようにしかならない」と達観しています。

そんなことで自分の身の振り方というのは、自身で考えていけばいいと割り切ることが大切です。

どうなる年金どうする年金 死ぬまで現役かな?

www.chunichi.co.jp

年金については国の制度として行なっていることなので、もらえなくなるということはありません。

しかし、これからは高齢者がますます増えていきますので、年金受給の時期が遅れるか、あるいは金額が少なくなることは十分可能性があります。

今、国は65歳以上を高齢者と定義していますが、それも怪しくなりました。元気な65歳の方には働いてもらおうというのが国の方針です。

国は定義を変えることが可能です。国が「これから高齢者は70になります」と発表すれば、その通りになり、年金も今後の可能性としては70歳からの支給も十分あり得ます。

今、一般的な定年退職は60歳ですが、再雇用で65歳まではなんとかいけるでしょう。実は、パソコンなどのスキルがあれば引き続き再雇用は十分可能性があります。

問題は給料が1/2~2/3ほどに減額され、新卒に毛の生えた給料しかもらえないことです。

実を言えば中小企業も再雇用に積極的なのはスキルや人脈のある60代を新卒並の給料で使い潰せるからです。身体がダメになったらそこで契約は更新されません。

現実は結構冷酷です。

そういうなかで年金も減額され、いつから年金がもらえるかわからないのでとりあえず働くしかないでしょう。

そもそも年金は賦課制度に無理があります。厚生労働省がどんないいわけをしてもやはり若年層には不利で高齢者には有利です。

私よりももっと若い人はさらに不利です。

私はライターとして細々と生活していきます。多く稼ぐことは当然無理ですが、なんとか食べていくための防衛戦が今後の生き方になるでしょう。

サラリーマンか個人事業主のいずれかが有利になるか分りません。ただ、サラリーマンであっても細々と食べられるなんらかのスキルが必要です。

そのスキルはサラリーマン時代で養っていくことが必要です。いざとなれば独立する・・・そういう気構えで生きていくことが必要と思います。

映画「嘘八百」や骨董の真贋について

 

妻が、「たまには気晴らしにでかけよう」と言いました。

私も、「忙しいのだけれど」と最初は断ったのですが、妻が「この映画をどうしてもみたい」と言ったので、映画『嘘八百』を見ました。

妻は期待したようですがそんな面白いものではなかったです。実際、テレビで1回見るだけで十分だなと言うのは私と妻の感想でした。

古美術品を商う則夫 ( 中井貴一)は、野田佐輔 ( 佐々木蔵之介)から千利休ゆかりの茶碗を購入するが、この茶碗は、野田がつくった贋作だった。てんやわんやの末、野田の腕を見込んだ則夫と野田がタッグを組むことになる。

wikipediaより

これに付け加えますと、野田が千利休最後につくったとされる茶碗を贋作し、骨董屋や偉い先生を騙して大金をまきあげるとの話です。

偉い先生であっても、こんなに簡単に騙されるものかなと映画の出来具合についていろいろと思うことがありました。

そういえばテレビ東京で放映中の『開運!なんでも鑑定団』で、鑑定士の眼力で、真贋がわかるものなのかとかねてより疑っていました。

実際、科学鑑定を経なければ真贋を見分けるのは無理ではないかなと想像していました。そんなことをぼんやりとして思ったときにこんなニュースが流れてきました。

news.livedoor.com

人間のやることですから鑑定ミスはありましょうが、私だったら真贋に自信を持てません。骨董屋の世界は、魑魅魍魎で、古い茶碗を500円で値付けしても誰もみませんが、それを100万円に値付けすると、これぞ芸術と考える世界のようです。

こういう茶碗は、来歴が大事で何をもっているかよりも誰がもっていたかの方を考えた方が早いのでしょう。

たとえば織田氏は江戸時代も1万石クラスの大名として存続していますが、織田氏の子孫の家から、こういう茶碗が出たとなれば、結構真剣に真贋を見極めようとするでしょう。織田信長も山ほど名物も集めましたので一つか二つ残っていても不思議ではありません。まあ、本能寺と安土城か燃えたのでほとんど残っていないのでしょうけれど。

この茶碗はラーメン屋の店主の祖父が大工で三好長慶の子孫から譲ってもらったという話です。三好長慶戦国大名で一時京都を支配していたので茶器を保有しても不思議ではありませんが、この店主の話を裏付けるモノがない以上、なんとも言えないです。

映画の話に戻りますが、興味深かったのは骨董屋を演じた中井さんの演技で、子どもが登場し、自分がもし子どもがいたらこんな大きくなっていたのかなと感慨深いものがありました。

自分は中井さんとあまり年が変わりません。もちろん中井さんのようにこんなにかっこよくありません。ですから、自分がこの年のくらいの娘がいてもなんの不思議もありません。

こんな娘がいたら手に負えないし、扱いきれないというのがホンネでした。そして自分もいい加減年を取ったモノだなと中井さんの演技を見つつ、そう思いました。

私も50を過ぎて結構いい加減に生きていますが、夫婦ともどもチンタラと生活しています。

本はタイトル詐欺が多いので著者に聞いて見ると・・・

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私はいろいろ取材しますが、そのなかで新書などの著書に話を聞くこともあります。

ある日、帯のタイトルと内容があまりにもかけ離れているというかまったく書いていないことを帯のタイトルにしているので、質問しました。

「帯タイトルの内容が書かれていないのですが、これって編集者がつけているのですか?」と聞きました。

するとやはり、「編集者が勝手につけた」という答えが返ってきました。そしてさらに酷いのは、帯タイトルを本のタイトルにしようとしていた話もありますが、そうなりますと、本の内容とタイトルがまったく異なることになり、さすがにそこは抵抗したと言うことです。

今は新書はできるだけ刺激的に読まれるように編集者がいろいろとタイトルを考えるとのことです。

実は今のライトノベルは、タイトルが異様に長いのですが、単行本も長くなっている傾向もあります。

中国から帰化した石平氏の本はもう20年間以上は中国は崩壊すると書いていますが、石平氏曰く、タイトルは編集者が決めているとのことです。

こうした中国崩壊論などはタイトルが長ければ長いほどウケるとのことです。

とはいえ、石平氏は別に経済の専門家ではないのでこうした本は講釈師のように面白く語れば、中国が嫌いな人にとっては一種のカタルシスの効果をもたらすでしょう。

私も実際にライトノベル異世界で無双する本を読んでいますので、カタルシスの効果は一定認めております。

タイトル詐欺に戻しますとライトノベルについてはおおよそタイトル通りなのですが、新書や単行本のタイトル詐欺は年々酷くなっています。

タイトルを決定するのは編集部の権限とは言え、まったく書いていないことをタイトルにするとその一瞬は読まれるかも知れませんが、新書や単行本の信用がなくなります。

ただ編集部にも言い分があり、タイトルを扇情的に刺激的にすると売上げが全然違ってくるとのことで、やむを得ないことだということです。

私が執筆したwebニュースでも実は刺激的なタイトルになる場合もあり、「このタイトルだと取材相手に迷惑がかかるなあ」と思うこともあります。

私はタイトル案を作成することもありますが、まずそのまま採用されることはありません。より刺激的になることが多いです。

「しようがないな」と最近は諦めています。

個人事業主のライターは社長でもある!!。その仕事は持続可能ですか?

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ライターとしては飯を食べていくことが大変であることは前にも話しました。

この仕事が持続可能かどうかを常に検討する必要があります。

持続可能でなければ、その仕事は止めた方がいいです。

ライターは、社長兼営業部長兼企画課長兼事務員なので、請けた仕事とは言え、当初の仕事と違うカタチでの進め方をされ、収入も割に合わないとなれば、相手方に提案する必要があります。

たとえば、本を執筆して欲しいオーダーがあって請けるケースがあります。しかし、その相手方が遠方であり、その打ち合わせが多く、その打ち合わせにギャラが出ない場合は、仕事を続けるには厳しいと判断せざるを得ません。

私は対面での打ち合わせの効用は認めつつも、打ち合わせの度に、遠方に行くのはやはり困ります。

今であればテレビ電話やSKYPEもありますのでそれで済む話です。

ただ昭和的な会社であると、「是非、直接会って打ち合わせを」と望むこともあります。これが都内であればいいのですが、会社が遠方であると困りますので、私は、打ち合わせのギャラを提示しました。

私はただ書くだけのライターではなく、企画・提案型のライターを自負しております。そこで会社と打ち合わせする際、多くの提案をいたしますが、そのギャラが発生しないというのはいかがなものかと思っています。

日本は、企画・提案についてのギャラはあまり発生しない文化がありますが、遠方まで打ち合わせをすると丸1日潰れます。

そうであればwebニュースの原稿を執筆した方がお金にはなるのです。しかし、打ち合わせはお金になりません。

この打ち合わせについて私が編集と同席することでずいぶん楽になっていると自負しています。なので堂々と、「この打ち合わせについてはギャラをお願いしたい」と要望しております。

ライターとしてはただ書くだけではなく厳しいようですが、社長でもあり、営業部長でもあります。厳しい目を持ってその仕事が持続可能かどうかを見極めていく必要があります。

 

ところでウチでも書かない?

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ある会社にインタビューをお願いしていた際、タイトルにあったことを言われたことがあります。

そう言われますともちろん嬉しいです。やはり自分にも承認欲求があり、その理由は、自身の承認欲求を満たすからです。

この承認欲求は意外と社会人にとって重要で人によっては、出世だったり、あるいは他者から認められることにより、自分が社会から必要とされるという認識が高まるからです。

これはサラリーマンでもライターでも同様かも知れません。

私にも承認欲求があります。

では書けるかと言えば、ちょっと辛いです。

自分も一日8時間働いてフルタイムで執筆や取材に充てて仕事の量を増やすことは十分可能です。

現段階で25万円~30万円ほどが私の月の収入ですが、なんとか贅沢しなければ暮らしていけます。

要は身の丈のあった生活をすればなんとかなるものです。

私が収入をオープンにしているのは、ライターの生活は、「おおよそこのくらいです」と知って欲しいからです。

もちろん私よりも格上のライターは多く、はるかに稼いでいる人も多いです。ただ参考にして欲しいという想いがあります。

みなさんの感想は、「こんなものか」「私よりも全然ダメじゃん」というものと想像しています。

後に書こうと思いますが一昨日、埼玉県と大手町に取材二件で移動もあり、身体も丈夫ではないこともあり、少々疲れました。こういう働き方を毎日続けていれば、さらに記事は書けるのでしょうが、難しいです。

フルタイム8時間の労働時間は今は心身的に難しくなり、平均すると6時間くらいでしょうか。心身共に健全だった若い頃は3件の取材をこなしていた時代もありますが、今はできません。

なので、「ウチでも書かない」と言われることはとても光栄である反面、そこまで無理して働くことはサラリーマンとあまり変わらなくなってしまいますので、悩むことがあります。

もう少し、私が心身共に元気であれば、取材も執筆もガンガンこなすことができるのですが、現状では難しいと言うのもホンネなのです。

 

 

 

「新聞崩壊」に思うこと。

gendai.ismedia.jp

詳しくは上記のレポートを見て欲しいのですが、この10年間で新聞全体で1,000万部が消滅したと言うことです。

私は政治的に右翼左翼を論ずるつもりはありません。また、新聞についてもそういう記事は見ておりません。それよりも関心があるのは新聞全体のビジネスモデルの崩壊です。

私はwebニュースライターですが新聞は購読せず、図書館で見ています。しかし、忙しい時は毎日読むこともなく、図書館に行く時間があるときだけです。

新聞文化は思えば団塊の世代からその上の文化かも知れません。というのも新聞代は月4,000円くらいでコスパ的には最悪です。

コスパ王を自称する私としては新聞購読は最悪です。

私の家も両親が存命中の時は新聞を読んでいましたが、亡くなった後、あんまり読むところもなく、購読を中止しました。

「新聞くらいは読んでおくものだ」というのは昔の暗黙の了解でしたが、これだけスマホが普及し、仕事柄必要な人は日経新聞を読むかも知れませんが、金銭的にはシビアな時代です。

削れるものはなるべく削ります。新聞を読める層は今や余裕のある家庭でしょう。といいますのは新聞の広告は、結構長期間の旅行プランや、健康食品など高齢者でカネに余裕がある内容でとても若者向けではありません。

私もシニアに近いミドルですが、まだまだ働かなければ行けませんので、こんな余裕のある旅行はできません。想像するに大企業か公務員を定年退職され、奥さんと一緒に旅行する・・・そんなイメージの広告が多いです。

今、団塊の世代は70くらいです。その方々は再雇用を続けながらもそろそろ仕事も完全引退され、旅行も楽しむかと思われているのでしょう。

ただ、これらの高齢者が亡くなっていくと新聞文化は消滅していくと想像しています。

これは雑誌も同じです。週刊文春・新潮にしてもターゲットは70歳以上であと20年たつと、団塊の世代もしだいに消滅していきますので読む方はかなり限られます。

これは業界とともにある山ほどある業界紙も同じです。

業界紙もいつまで寿命が持つかというのも一つのテーマです。

最後には、官公庁、図書館など限定された場所で読むのが一般的になっていく文化になります。

これは右翼左翼に限りません。思想は別としては老いは平等でやってくるのです。

新聞文化は歴史的に大きな役割を果たしましたが、ビジネスモデルが崩壊した今、新聞を購読する方、執筆する記者、広告担当者など新聞関係者全員が老いているのです。

新聞文化自体が老衰を迎えようとしているのです。

ちなみに、もし一紙だけ無料で新聞をあげると誰かに言われたら、ズハリ日経産業新聞を読みたいです。