ライター 長井の気ままな生活

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沖縄旅行記10~甲子園で活躍した首里高校の悲劇

 観光バスツアーでガイドさんは、様々な沖縄に関するエピソードを伝え、我々を飽きさせないようにしています。はじめて聞く話も多く、我々も退屈はしませんでした。その中で、首里高校の話は心に打つものがありました。かつての沖縄野球の名門は、首里高校ですが、1958年に戦後初の夏の甲子園に出場しました。当時は、日本復帰前で、アメリカ統治下でした。

 実は、首里は、太平洋戦争の沖縄戦で、日本軍は防衛線を敷いたところで激しい戦闘が繰り広げられたところです。ただし1945年5月末で首里防衛線が崩壊し、一部は糸満市に陣を引きます。最終的に同年6月23日をもって、沖縄県での日本軍の組織的戦闘が終焉を迎えます。ちなみに後に書きますが沖縄県民にとって6月23日は重要な意味を持つ日です。

 首里城から見る城下は当日あいにくの曇りでした。

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首里城下の街並み

 その首里高校ですが、初の甲子園出場を果たしますが、単なるスポーツの枠だけではなく、日本国中でフィーバーがわきます。対戦相手は、福井県勢の名門・敦賀高校にあえなく3-0で敗れますが、惜しみない拍手が寄せられました。

 そして甲子園では敗れたチームが甲子園の土を故郷にもっていくことが当時から慣例でしたが、首里高校野球部も同じく甲子園の土を持っていきます。ところが、当時の沖縄は、アメリカ統治下。アメリカの法律では、甲子園の土は"外国の土"であり、没収され、海に捨てられます。当時の首里高校球児の嘆きは想像できます。

 この時、憤りを感じた日本航空の客室乗務員の女性が甲子園の小石を首里高校に送っています。これは極めて機転の利いた行為で法律では、土はダメですが石はOKであることをこの客室乗務員は知っていたのです。ちなみにこの石は、首里高校の甲子園出場記念碑にはめ込まれています。

 このこともきっかけになり、沖縄の本土復帰運動がより盛んになり、安倍晋三首相の親族である佐藤栄作首相時代の1972年に本土復帰が実現しました。もちろん、甲子園の出来事のみで本土復帰が実現したわけではありませんが、この出来事も大きな役割を果たしたといってよいでしょう。

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