ライター 長井の気ままな生活

気ままなライター生活を綴ります

父が消えた時

 父は長命で80代後半まで存命しました。私が覚えている父は、飽きっぽい人でよく転職している人でした。とはいえ、母親がしっかりしている人で高度成長時代をたくましく乗り切っていました。

 ただ、私から見て父はサラリーマンに向いていません。母の支えがあったからこそなんとかやっていけました。会社で面白くないことがあると、よく酒を飲んでいました。私は両親から遅くに生まれた子ではありますが、父親から可愛がられた記憶もないです。とはいえ、母からは溺愛されましたが。

 どちらかといえば父は姉の才能を買っていたのでしょう。私から見ても姉は優秀ですし、親族からは、「姉は優秀だが、弟はポンコツ」という評価でありましたので、それは私も受け入れていました。

 父が60歳を超えて定年を迎え。個人事業を実施した際、前の会社と似たようなことをやっていたようです。仕事のスタイルは、今の私と同じで個室に籠もって仕事し、お客さんと打ち合わせするときは外出するものです。

 父の健康寿命は想定外に延びて、70歳になると1社下請である会社専属で仕事をし、しかし自分一人きりでは回しきれないので知り合いの老人を集めて、仕事していました。元々、父の実家は農家出身で米俵を担いでいたとのことで体力はあったのでしょう。私は父の健康寿命が長かった秘訣は、農家の出と関係しているのではと思っています。

「一体いつまで仕事を続けるんだ」

 私も姉も同じ事を思っていました。75歳になると相当仕事も減少していましたがそれでもクルマの運転は続けていましたから相当なものです。このあたりから父が仕事を与えていた取り巻きの老人たちも去って行きます。

 この時期、母が亡くなります。この時、父は相当なショックで、葬式の時の父の涙は印象的でした。まあ、溺愛された育った私も泣きましたが。

 父にとって母の死去はショックでしたが、それでもこの頃年収で150万円を稼いでいました。基本、ある会社の課長と親しいというところで仕事の受注をしていました。

 年金プラス150万円ということでそう悪くなかったです。父は恐らく、人間関係が続く限りずっと、仕事をするつもりだったのでしょう。父は80歳で個人事業を閉じましたが、これは恐らく仕事を外注している人との人間関係が切れたかその人が出世したためだと思います。

 ただし、仕事を辞めてから困ったことがあります。父の健康寿命が80歳で相当衰え、介護が必要になりました。実際、認知症というかわけのわからないことも言うようになりました。これは後日描きますが、この時期、私、姉 父の3者で今後のことや遺産について処理案を話し合うようになります。

 実は父の介護については妻が活躍しました。今でも妻には申し訳ないと思っています。介護の苦労については、やった人でないと分からないでしょう。このあたりは私は多くを語りたくありません。

 ただ、当時、父に対して年を取るほどこうも頑固になるのかと悲しくなりました。父とは喧嘩もたくさんしました。

 父が亡くなったとき、私はほっとした感情が湧き出したことを否定はしません。ただし、父が保存していた個人事業の書類をすべて整理した時が本当の意味での父の死でした。父は一応事前に個人事業の廃業届を提出していました。

 その書類の中には個人事業の足跡を見ると私や義兄などを取締役にする構想もあり、法人成りも目指していたようです。父は私に気を使って出版部門も項目に入れることも検討していました。