ライター 長井の気ままな生活

気ままなライター生活を綴ります

沖縄旅行記14~最終回 沖縄旅行は今までで一番楽しかった旅かもしれません

 沖縄旅行記の最終回です。食べ物も美味しかったですし、海もきれいでとても満足に行く旅行でした。私は旅行はそれなりにしてきましたが、この沖縄旅行は一番楽しかった旅かもしれません。これは妻も同意見です。

 最後は沖縄のそばで締めました。

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 会社もタバコも辞めて、ライターという仕事をしていますが、世間から見ると、社会からの落伍者と言われるかもしれません。一般的な常識や視点からするとそうかもしれません。

 ただ、サラリーマンをやめても、社会とのかかわりは失っていません。取材をし、人と話しています。

 実際、私はあんまり稼いでいません。稼いでいないのに、台湾や沖縄旅行に行っていることに不思議に思われるかもしれませんが、これは私たち夫婦のライフスタイルにとてもおおきく関わってきます。

 私はサラリーマンや出世から下りた人間ですのでもう見栄を張ることはありません。

冠婚葬祭の出席も限定しています。疲れたからタクシーを使うこともしていません。要するにお金を使っていないのです。見栄などを捨て、自分たちが好きな旅行にシフトするメリハリのある生活を行っています。

 私は多くの人にこの生活をおススメすることはありません。それはご自身の意思で行うことです。ただ、私はこのライフスタイルをとても幸福度や満足度が高い生き方であるということを確信をもって言っています。

 沖縄旅行から終わってちょっとした後、旧知の方から現役復帰の誘いがありましたが、断りました。その方は、私が退職していることは存じているので無職だと思っていたようですが、会社を辞めてから今はこのような生活をしていると伝え、「ありがたい申し出ですが、私はボチボチ稼いでおり、生活にとても満足しているので現役に復帰することはありません」と断りました。この話はいずれまとめて書きます。

 私はサラリーマン時代のことについて総括していませんが、つくづく無駄な出費をたくさんしてきたなと思い返します。ちょっと疲れたら、「タクシー」を使い、タバコも普段は一日一箱ですが、ストレスがたまると1.5箱に膨れ上がるなどいらない出費が多かったことも事実なのです。その出費でストレスが解消されるかといえばノーです。タバコを吸って一時的な気分転換にはなっても根本のストレスは解消されない生活をしていました。今はタクシーはほとんど利用していません。

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沖縄上空

 私たちは今回、沖縄で多くの大自然を見てきました。いずれも素晴らしいです。もし、この光景を見なければ一生後悔するだろうと思えた風景ばかりです。もし、現役を続けていれば、見ることは難しかったでしょう。食べ物も美味しかったです。シリーズには登場しませんでしたが、「那覇ステーキ」で食べた肉も美味しかったです。

 

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那覇ステーキ

 妻は沖縄旅行中、「二人で長く楽しく生きよう」と言っていました。私も同感です。本来、人間って出世は限られるのですから、レースで勝てないなと思ったら早々に下りていいのだと思います。

 ある程度、年を取ったら自分たちにとって幸福な選択は何かと基準で人生を決めてもいいのだと思います。沖縄旅行は私たちにとっては幸福な旅でした。

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沖縄旅行記13~タバコをやめると観光はもっと楽しくなります

 私はタバコを完全にやめています。はじめてかかる医者に問診票を出すとき、禁煙に成功したことも書いていますが、医者からは、「30年間吸い続けたタバコをよくやめられたね」と感心されます。私もよく頑張ったと思います。

 今回の沖縄旅行ですが、割と那覇市内はタバコを吸う場所は結構あったように思います。ただし、観光バスツアーでは当然はじめていく地域ですから、たばこを吸う場所を見つけるのが大変です。当然、タバコを吸えなくなるといらいらも募りますから、せっかくの観光も楽しめなくなります。

 それにガイドさんと一緒に行動しますから、タバコを吸っている時間はありません。

 私が禁煙に踏み切った理由として都心に出るときにタバコを吸えるスペースをみつけることに手間をかけすぎていたことです。そして東京都の条例や改正健康増進法を受けて、これは都心でタバコを吸うところがなくなると予測し、禁煙しました。

 だいたいタバコを吸いたくなるタイミングとしては一時間に一本です。タバコを吸えなくなる時のイライラは他人に確実に迷惑をかけています。タバコを吸っている間、その間、せっかくの大自然を見逃しているかもしれません。

 そして実はなんとなんと、今回の観光にかかる費用二人分ですが、私が喫煙していた六か月分でまかなえたのです。

 「嘘だろ」

 と言われるかもしれませんがほんとなんです。タバコをやめると夫婦で沖縄旅行に行けるのです。なんと素晴らしいことでしょう。ちなみに私が当時、タバコを吸っていたのが、一日一箱。チェーンスモーカーというほどでもないのです。それでもタバコをやめると観光費用を捻出することができるのです。

 それとこれはあまり知られていませんが、タバコが原因で離婚に至ったケースがあります。タバコをやめると夫婦仲は確実によくなります。夫婦のいずれかが非喫煙者であれば、それは相当我慢されています。私の妻もタバコについて長年やめて欲しかったと言っていました。

 ただし、妻が私の喫煙習慣を許していたのは、会社で辛いことがたくさんあってストレス解消のため、タバコを吸うことも仕方がないとしていたからです。しかし、会社も退職し、ストレスらしいストレスがなくなった今、禁煙に踏み切るべきと妻が助言し、私は禁煙治療を受けました。

 妻が何の気なしに、「タバコやめてもいいんじゃないの」と私に言ったとき、「そうだな」と私もあっさり同意しました。

 喫煙することで今のご時世いいことはまったくありません。ちなみに、私たちが宿泊した簡易式ホテルは禁煙です。ですから禁煙ホテルは今後も増えるでしょう。

 「タバコを吸うと罰金を取ります」

 そう書いているホテルはこれから増えてきます。何よりもタバコをやめると選択肢が確実に増えます。

 私はタバコをやめるとこんないいことがたくさんありますと実体験を踏まえて執筆していますが何よりも自由になり、生活がとても豊かになります。どこまでも行くことができます。

 ただし、会社勤務を続けていましたらタバコをやめることはできなかったでしょう。私は人生を「下りる」選択をし、早期退職の道を選びました。そしてタバコもやめました。そのことにより、豊かな人生を育んでいます。

 タバコをやめるといろんないいことがありますが、観光を心から楽しむこともポイントの一つです。

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沖縄旅行記12~沖縄県平和祈念公園で平和への尊さを考える

 そろそろ沖縄の旅も終わります。沖縄での旅行は大自然を楽しむことも大切ですが、もう一方、平和への祈念や戦争での犠牲者の慰霊も忘れてはならないことだと思います。

 「平成」という年号に意味があるとしたら、日本においては戦争がまったくなく平和であったことは良かったです。何しろ、明治政府が誕生して以来、日清戦争日露戦争第一次世界大戦後と年中戦争しているイメージがありました。そして満州事変から太平洋戦争まで15年(数えでの計算)間も戦争が続くという世界歴史史上珍しい時代でした。

 実はガイドさんはこの説明の折、「15年戦争」という用語を使っておりました。実は、「15年戦争論」は歴史学会では正式に認められていない用語なのですが、それでもガイドさんの沖縄戦に対する思いも強かったのでしょう。そこで15年戦争論に触れないことはやや不親切であり、ここで少し解説します。

 満州事変勃発の1931年から起算すると1945年は15年目にあたることから15年戦争と呼ぶことも一定の合理性はあります。中国東北部の旧奉天(瀋陽)から始まった15年戦争のほぼ終結の場といえばもちろん、広島や長崎の原爆投下、旧ソ連の参戦も大きいですが沖縄戦終結15年戦争終結の場所としてはふさわしいのかもしれません。

 では沖縄戦はいつをもって終結したかといえば、首里防衛線が崩壊したのち、一部は南部である糸満市の地下壕で抵抗をつづけながらも牛島満軍司令官の自決により、組織的な沖縄での抵抗は終わっています。

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美しい光景ですが、沖縄戦では一般市民もこの崖から飛び降りたとのことです。

 そして沖縄では組織的な沖縄戦終結を6月23日と考え、「慰霊の日」としており、事実上の公休日の扱いになっています。

 今上天皇は皇太子時代から沖縄を訪問し、特別な思い入れがあるようです。今上天皇の感想として、やや驚いたことは2015年1月に、「終戦から70年という節目の年」に当たり、「この機会に、満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び、今後の日本のあり方を考えていくことが、今、極めて大切なことだと思っています。」と述べています。すなわち、1945年に終わった「この戦争」の起点を1931年の満州事変とし、太平洋戦争と一体のものと見る認識を示しています。

 実は「15年戦争論」はかなりリベラル的な史観で、今上天皇がこれを支持したことは極めて異例な出来事だったのです。

 

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沖縄県平和祈念資料館

 私は政治家や評論家が特定の国々に対して強気な発言や執筆することが愛国だと思っておりません。その発言は時として国の方向性を誤らせると考えています。

 過去の汚点は正直に認め、各国の歴史観や齟齬を解消するには膨大な時間がかかるにしても、そのことについて真正面から取り組むことが過去の人々への慰霊と償いにほかなりません。

 私は普段は政治について言及することがなく、執筆することはありません。ただ、それでも沖縄旅行記で執筆した動機としては、平和教育基地問題、米軍問題などが極めて沖縄の日常に近い場所であるからです。ですからこれらのことに言及することなく、沖縄旅行記を執筆することは私にはできなかったのです。

 私はリベラルや保守の思想を超えて、これらの問題について向き合うべきかと考えます。

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沖縄旅行記11~玉泉洞 洞窟探検しながら「下りる」意味を考える

 首里城を後にして、今度沖縄ワールドに向かいます。時間があれば、ここでじっくりとするのもいいのですが、時間的に玉泉洞という洞窟とエイサーを見ることしかできませんでした。ただいずれも素晴らしいです。ただ、エイサーは写真撮影は禁じられていましたのでこちらのシリーズに掲載することはできません。申し訳ないです。

 洞窟も私の文章よりも写真をご覧いただいた方が良いと考えます。

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 私はライターの仕事をしていますが自然に関する表現力はあまりないんです。インタビューして相手が主張したいことをまとめるスキルはあっても小説家のように大自然に対する表現能力は期待できません。

 この洞窟結構長くていつまで続くのかなと思いました。40分ほどで地上に上がりましたが。沖縄の大自然は海のイメージもありますが洞窟もかなり見るべきところがたくさんあります。沖縄の魅力って一回行っただけではなかなかすべてを網羅することはできないと思うのです。こんなところにも沖縄のいいところがあるんだなと感心するところが多いです。そのうちの一つが玉泉洞です。

 そして重ねていいますが、この洞窟の写真はいいと言う方いらっしゃるでしょうが、実際の光景の方がさらに良いです。私たち夫婦は長年沖縄にあこがれていましたが、ようやく夢がかなったという感じです。

 以前勤めた会社のある女性事務員がよく沖縄に行っていましたが今思えばその気持ちは理解できます。私は一定の休みを取るのは難しい立場でしたのでこの女性事務員のような休暇取得は無理でして、会社を辞めてから旅行を楽しんでいます。

 今の私は社会的立場はゼロに等しく、ライターで細々と妻と一緒に生活していますが、今の人生はかなり幸福です。

 会社を辞めなければ妻と一緒に洞窟探検を楽しむこともできなかっただろうなと洞窟を歩きながら考えていました。人生は何が幸福かはわかりません。一定の役職について、指揮を執るのもいいでしょう。

 しかし、十分働いてきたこともあり、ここで人生を「下りる」選択をしました。

 

www.torute3.com

 わたしは時折、とるてさんのブログを紹介するのですが、もっと世の中はとるてさんの思考が広がればいいのにと思うことがあります。洞窟を下りつつ、自分の人生も下り道ではありますが、それは決して悪くありません。

 幸福感を得られるためにはどのような道がベストであるか、50代半ばになった今、考えているところです。

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沖縄旅行記10~甲子園で活躍した首里高校の悲劇

 観光バスツアーでガイドさんは、様々な沖縄に関するエピソードを伝え、我々を飽きさせないようにしています。はじめて聞く話も多く、我々も退屈はしませんでした。その中で、首里高校の話は心に打つものがありました。かつての沖縄野球の名門は、首里高校ですが、1958年に戦後初の夏の甲子園に出場しました。当時は、日本復帰前で、アメリカ統治下でした。

 実は、首里は、太平洋戦争の沖縄戦で、日本軍は防衛線を敷いたところで激しい戦闘が繰り広げられたところです。ただし1945年5月末で首里防衛線が崩壊し、一部は糸満市に陣を引きます。最終的に同年6月23日をもって、沖縄県での日本軍の組織的戦闘が終焉を迎えます。ちなみに後に書きますが沖縄県民にとって6月23日は重要な意味を持つ日です。

 首里城から見る城下は当日あいにくの曇りでした。

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首里城下の街並み

 その首里高校ですが、初の甲子園出場を果たしますが、単なるスポーツの枠だけではなく、日本国中でフィーバーがわきます。対戦相手は、福井県勢の名門・敦賀高校にあえなく3-0で敗れますが、惜しみない拍手が寄せられました。

 そして甲子園では敗れたチームが甲子園の土を故郷にもっていくことが当時から慣例でしたが、首里高校野球部も同じく甲子園の土を持っていきます。ところが、当時の沖縄は、アメリカ統治下。アメリカの法律では、甲子園の土は"外国の土"であり、没収され、海に捨てられます。当時の首里高校球児の嘆きは想像できます。

 この時、憤りを感じた日本航空の客室乗務員の女性が甲子園の小石を首里高校に送っています。これは極めて機転の利いた行為で法律では、土はダメですが石はOKであることをこの客室乗務員は知っていたのです。ちなみにこの石は、首里高校の甲子園出場記念碑にはめ込まれています。

 このこともきっかけになり、沖縄の本土復帰運動がより盛んになり、安倍晋三首相の親族である佐藤栄作首相時代の1972年に本土復帰が実現しました。もちろん、甲子園の出来事のみで本土復帰が実現したわけではありませんが、この出来事も大きな役割を果たしたといってよいでしょう。

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沖縄旅行記9~首里城を訪問すると琉球史が見えてきます

 

 3日目は、沖縄南部の旅です。本日で沖縄を離れます。バス観光ツアーの旅は、首里城→おきなわワールド→平和公園→道の駅の買い物→那覇空港のルートです。

 首里城守礼門をくぐった時、ふと大昔の大河ドラマ琉球の風』の冒頭シーンを思い出しました。本来、官職は朝廷が武家に授けるものですが、戦国時代になると権力のある戦国武将が遊び心で家臣に官職を与えることがよくありました。

 

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守礼門

 豊臣姓を賜る前の羽柴秀吉が家来の亀井 茲矩に恩賞にどこの国が欲しいかと聞いたところ、「琉球国」を賜りたいと亀井は答え、それに対して秀吉は、「亀井琉球守」と書いて扇子を渡した話があります。このエピソードは、『琉球の風』の冒頭に登場します。実は戦国時代のよくできたエピソードは後世のつくり話が多いのです。大河ドラマでは、よく登場する明智光秀の「敵は本能寺にあり」と叫ぶシーンは、初出が江戸中期の史料『明智軍記』に登場しますが、おそらくつくり話であると思っていいです。

 

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 琉球国の風OP いい歌です。隠れた名曲です。

 私はつくり話だからといって、大河で使うなというのは野暮だと思います。アメリカの西部劇、韓国の史劇もそんなにまじめに歴史考証したらつまんないと思うからです。

 ですからこれも疑ってかかるべきエピソードなのですが、後の朝鮮の役で、朝鮮水軍と日本水軍が戦う中で、朝鮮側の名将・李舜臣が亀井が乗っていた船を奪い、後に李が朝鮮宮廷に報告する中で、この内容が書かれた扇子を発見したことが書かれていたのです。ですからこのエピソードは史実であることが明らかになっています。

 実際、亀井は琉球征伐を申し出、一度は許可されていて、歴史の歯車が別方向で進んでいれば、秀吉による琉球の役により、首里城陥落が早まっていた可能性があったのです。ちなみに、政治家の亀井亜紀子氏は家系図上での子孫です。

 琉球国はもともと、三つの国に分かれており、統一後は、奄美大島まで版図に収めていました。収益はやはり貿易であり、日本・博多、朝鮮、中国、東南アジアとも善隣貿易を行ったことで栄えていました。

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首里城

 関ヶ原の戦いの後、薩摩藩は、琉球侵攻をし、抵抗らしい抵抗もなく、琉球薩摩藩支配下に置きました。やはり首里城を見ると、天下の名城である大阪城小田原城のように守備に堅固とは言えません。

 当時の琉球王家は尚氏でしたが、薩摩藩の支配を受けつつも対外的には、琉球国は存続し、明やその後継国家の清の冊封を受けつつ、日本、中国、朝鮮、東南アジア各国の文化吸収し、独特の琉球文化を形成することになります。

 

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琉球王の椅子

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行政の中心であった首里王府

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中国の皇帝の使者を迎える琉球

 しかし、明治維新後、明治政府は、琉球国琉球藩とし、併合します。最終的には、琉球王族は日本の華族になります。実はこの時あまり知られていませんが、清が琉球処分について抗議を行い、険悪な関係になります。中国からすれば、琉球国は、中国の冊封を受けているのだから、日本の自由にならないというのが中国側の解釈です。これが日清戦争の遠因になります。日清戦争終了までこの地域の領土の確定は日本と中国の間で綱引きが行われることになります。

 当時のアメリカ大統領も巻き込み、日本側は琉球本島は日本領、先島諸島は清領と提案していましたが中国側の実力者である李鴻章が反対したことで、一時期は棚上げになります。

 私が驚いていたことは当時の明治政府は先島諸島譲渡案を中国側に提案し、逆に中国側はこの案は飲めないと反対があり、先島諸島分割案は幻に終わっていたことです。

 ですから、もし日清戦争に日本が負けていれば、琉球国が復活していた可能性もあります。もちろん歴史にイフはありませんが。

 この沖縄旅行記では首里はもう一度登場します。

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沖縄旅行記8~異国を感じられる「美浜アメリカンビレッジ」

 沖縄北部から南へ移動し、異国情緒を感じられる「美浜アメリカンビレッジ」に到着しました。このあたりになると、そろそろ疲れてきますので、妻とアイスを食べました。

「冬なのにアイス?」

そう思われたかもしれませんが、結構この時期の沖縄も暖かいです。それに疲れると糖分が欲しくなるものです。「美浜アメリカンビレッジ」に着いた後、アイス屋に入り、二人で休みました。

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 「美浜アメリカンビレッジ」の近くには嘉手納基地もありますので、アメリカ人もとても多いのです。

 もともと「美浜アメリカンビレッジ」は基地でしたがその跡地をうまく有効活用した事例として知られています。実際、メインは買い物する場所でしょう。沖縄の名物、アメリカらしい服などを販売しています。若者の来場もとても多く、年間800万人と言われています。この時、私は、「ハブ酒買いたい」と言いましたが妻からにべもなく却下されました。

 亡父は沖縄問題について、基地があるから沖縄は発展しているとの持ち主でしたが、しかし沖縄の基地空間を別利用した方が沖縄内需に貢献するという意見もありますし、「美浜アメリカンビレッジ」は後者の意見を具現化した例とも言えます。

 ちなみに近くにある嘉手納基地は、面積でも日本最大の空港である羽田空港の約2倍です。

 これから沖縄では基地返還のケースもあるでしょうが、「美浜アメリカンビレッジ」のような成功例が続けば、沖縄はさらに発展することが期待されます。ここの建築もなかなか自由気ままなポストモダンが多かったです。私の下手な文章よりも写真で見たほうがわかりやすいですのでご覧ください。

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  最後のショットがとても好きな写真です。左側の数人の若者は、夕日を見ようとして友人たちと集まっていたようで、英語で話していました。

 私はこのような友情を育んだ経験はありませんからいいますがとてもいい光景です。ちなみに、これら一連の写真をすべて撮影しているのは妻であります。妻はスマホで写真を撮影するのがとても好きです。

 前は一眼レフで撮影していたのですが、今はスマホの性能が向上したことでスマホ撮影をしています。このショットもちょうどいいタイミングで撮影できました。

 妻はあまり文章を執筆しませんがその代わり、写真撮影で自分の考え方を表現したいという思いがあります。

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 この写真はちょうど、タイミング的には、日が沈む時でした。藤原定子に仕えた平安時代のエッセイスト・清少納言は、「冬は早朝が良い(冬はつとめて)」と評しましたが、沖縄では冬でも海から見る夕暮れがとても映えています。

 私たち夫婦はまだまだ沖縄の素晴らしさを知りません。ただ、その光景の一端を知っただけでも幸福感を抱き、再度行きたいと思っています。

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