ライター 長井の気ままな生活

気ままなライター生活を綴ります

60歳から始める個人事業主~死ぬまで働くが31%

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 ラジオ番組は自営の人が聞いているため、この「死ぬまで働く」が31%という結果についてはやや高めに出ています。恐らくサラリーマンも含めて聞けばもっと低い数字が出るという印象を持ちました。自営の人は満足度が高いため、多分、客先とのパイプが続くまで仕事をするだろうなと考えています。個人事業主だった父も、パイプが続くまで仕事を続けました。私もクライアントとの関係が続く限り、仕事をします。

 私はライターという仕事をしていますが、面白いですし、続けたいです。それに借金があるわけでもありませんし、現段階で廃業する理由もありません。ちなみに私の近所に飲食を行なっている店がありますが、自宅でやっています。しかも、時々、長期の休暇を取り、その間、店を閉じていますが、その店は借金がなく、従業員を雇うこともなく、固定費もしれている店であるため、潰れません。スモールビジネスを潰さないコツは借金をしないことと、固定費を抑制することなのです。それで適当に休暇が取れれば最高です。こういう形態の店でしたら、それこそ死ぬまで飲食を続けられます。

 要するに何が言いたいかといえば適度に自由裁量で働ければ、働くことにワクワク感があり、長持ちするということです。これが雇われであれば厳しいです。私はサラリーマンを65歳まで続けるのは難しかったですが、その理由は自己裁量権がなさすぎることにあります。自営はその点、面白い仕事をチョイスして行えることが可能になるのです。

 個人事業主になることは簡単ですが、結局は行動なのです。会社を退職して、最寄りの税務署に開業届けを提出すればみんな立派な個人事業主ですが、それを考えたとしても実行に移すのは何人居るかということです。

 使い古された言葉ですが、人間はやはり行動でしか変えることはできません。ただ、我ながら思いますが、普通の人間でしたら、会社を辞めて、個人事業主に転じることはしないです。おとなしいタイプの人間でありつつも、やる時はやるタイプだったのでしょう。

 私はその意味で自己啓発書を読んで「目覚めた」というのもいいのですが、それをどこまで実践できるかにかかっています。以前の知り合いで、そのたぐいのセミナーに参加して、「目覚めた」と言った人がいましたが、結局は何も変わりませんでした。麻薬みたいなモノで最初のウチは、活発になるのですが、しばらくたつと元通りになると言っていました。

 私は行動する時に遅いも早いもないと考えています。私みたいにオッサンが会社を退社して好きなことをやっていてささやかな幸せをつかんでいますが、オッサンでも高齢者でも変わるときは行動に移したときだけなのです。

 

60歳から始める個人事業主~セブンイレブン都内灰皿撤去

 セブンイレブンが都内の灰皿を撤去することを決めたというニュースが流れてきました。遅かれ早かれ、私は都内でタバコが吸える場所はなくなるだろうと想像していました。タバコに対する批判も大きく、喫煙者のマナーも良いかと言われれば、中々それも難しいです。

 個人的には都内に点在するコンビニの灰皿で吸えるというのは本来あり得ません。都内23区はそれぞれの区の条例で歩きタバコやぽい捨て禁止でして、コンビニの灰皿はそもそも区条例に合致しているかといえば極めてグレーな立ち位置でした。

 そして都条例や改正健康増進法に照らし合わせれば、コンビニ灰皿が適法かといえば、違法になる可能性も強くコンプライアンスを遵守するコンビニの立ち位置からすれば、撤去は当然のことと言えます。一応、施行は2020年4月1日ですが、それ以前から行なった措置です。

 それにコンビニの近くに住んでいる方からすればタバコは臭うでしょうし、近くにマンションがあれば「撤去しろ」と苦情が来ていたのは想像できたことです。

 これからローソンやファミマなどのほかのコンビニも灰皿撤去の動きは追従するでしょう。それに今は、ガッツリいえば喫煙者は30%にも満たないので社会全体が喫煙者に対して気を遣ったりサービスする必要が無くなったことも大きいのです。むしろ、非喫煙者に対して厚いサービスを行なう方が時流にかなっています。

 コンビニだけではなく、様々な喫煙場所がオリンピックを前に次々と撤去されることは間違いないでしょう。そしてこの都内の措置はあっという間に全国に波及して、禁煙ホテル・旅館も増加し、タバコを吸える場所は自宅しかなくなります。

 私は大学入学とほぼ同時に吸い、ほぼ30年間つきあいのあったタバコとおさらばしました。潮時ですし、チャンピックスという薬の力で禁煙できました。今は吸いたいと思いません。

 私が禁煙を始めたのは、改正健康増進法と都条例を見た瞬間、「これ吸う場所なくなるわ」と理解し、別に国や都に反旗を翻しても勝てないことも分かっていたので、白旗を揚げて禁煙に取り組みました。

 私は個人事業主は禁煙をした方がいいと思います。サラリーマンであれば会社が守ってくれますし、会社のトップが喫煙者であれば喫煙そのものに甘くなります。以前の会社はタバコ天国でした。でも個人事業主はクライアントを自分で開拓しなければなりませんし、タバコ嫌いなクライアントもいるでしょうから、止めた方がいいです。

 喫煙しているから、クライアントに嫌われて失注することも馬鹿馬鹿しいですし、これを機会にタバコを止めるのも大事なことです。

60歳から始める個人事業主~遺産分与はやはり親族同士のコミュニケーションが大事

 兄弟同士や親子同士が仲が悪い、あるいは後妻を迎えたというケースで関係者がコミュニケーションの頻度が薄いとなると結構、遺産分与問題は深刻でそれがもとで喧嘩になります。

 父の資産について亡くなる数年前に姉と父とで話し合いました。他人任せの私が珍しく主導権を握り、私案を提示しましたが、私と姉にとっても悪くない案でしたので受け入れられ、父の死亡後、その通りになりました。

 これはかなりの理想型です。父は話し合うこと自体嫌がり、「オレはまだ老後がある」と言っていましたが、私と姉の意見で押し切りました。

 実際、姉も現金が欲しかったこともあり、それがいくらなのかわからないと困るというのが言い分でした。私と姉は仲は悪くないです。

 息子が50を過ぎると、親は結構な年になります。私はこの年代には、関係者を集めて遺産について相談することをオススメします。本当は親が主導して遺産分与の差配を行なうべきなのです。昨日も書きましたが親はその仕事を放棄する人がおります。ですから、お子さんが主導して話し合いの場を持つべきです。

 ただし話し合いはあくまで相続の権利がある方に限るべきです。そしてこれからは介護もありますので介護込みの相続のあり方についても事前に話すべきです。そういうところを見るとだいたい落ち着くべき所に落ち着きます。

 これからの時代、長男夫婦が必ずしも介護する時代とはいえません。これも話し合いをすべきです。

 そのため、父が亡くなる前に姉との話し合いの場をつくったことは良かったと思いました。子どもの頃から優秀な姉、ポンコツな弟と言われ続けてきましたが、結構な時を経て、面目躍如を果たしました。

 うまくいくケースを見ると「独り勝ちしない」「主導的役割を果たす人がいる」「介護を含めた公平性の高い差配を行なう」の3点がポイントになります。

 私は高齢者に言いたいことは、立つ鳥跡を濁さずではありませんが、遺産分与は、最後の決算になります。その決算の場で争うことは望ましくなく、ご自身の晩節を汚すことになります。遺産分与の差配が上手に行かなければ、一気に生前の評価が下がります。

 「なんだ生前はいいことを言っていたが、たいしたことがなかったんだな」

 そういう評価になります。ちなみに、「オレは使い切って子どもには一切残さない」

これもアリです。親の資産を必ず子どもに譲らなければならない道理はありません。

 私は、資産を残している場合、本来親が分与を差配すべきですが、使い切ると決心しているのであれば、その決心をお子さんに伝えるべきです。

 ちなみに、資産で争っている人は援軍が欲しいため、周囲に助けてくれと言いますが、一切耳を貸す必要はありません。恨まれるだけです。

 人の評価は棺をおおいて定まります。人間の真価は死後決まるものという意味ですが、最後の決算である遺産分与の差配に失敗すれば、すべてだいなしになります。

 

60歳から始める個人事業主~仕事ができる人ほど遺産分与は後回しになる

 私は資産を持っていませんが、資産を持っている人を何人か知っています。いずれも仕事の出来る人です。私が財産管理をする会社に取材した時に、その会社の責任者は「仕事の出来る人ほど遺産分与は後回しになり、"相続"が"争続"になる」と語っていました。

 最近、弁護士や不動産管理会社を取材して、そこからうかがった話を紹介します。

「財産権」と「経営権」がスムーズに事業継承されていないという指摘があったのです。

 あるそこそこ規模感のある中小企業の会長ですが、社長の椅子は息子に譲ったものの、資産についてはまだ決めていません。何しろ株の大半はいまだに会長自身が持っていますから、目の黒いうちは社長に対して後ろから色々と指導する姿勢は変えておりません。いわば院政です。問題は会社の株もいまだに5割ほど保有しており、それが結構な資産です。

 しかも後妻を迎えており、株や不動産、現金を中心とした資産分与をどうするのか決めていないのです。もし、もしものことがあれば後妻VS長男の骨肉の争いが発生することは目に見えております。後妻にも息子さんが何人かおり、こういうケースはほとんど後妻家族が株を保有することになりそうです。そうなると経営上、配当金をより多く求めることが増える可能性もあります。

 中小企業は、「財産権」と「経営権」を70歳を過ぎたら、事業継承をスムーズにすべきですが、今深刻なのはこの両権利がすんなりと移行されていません。

 世代交代を考えれば、会長は社長に株を譲るべきなのでしょうがそうなると、実権はすべて社長が握ることになり、会長の言うことを聞く人がいなくなるのが寂しいのでしょうね。

 不動産管理会社は会社に混乱をもたらさないためにも、会長の院政を廃止し、社長に指揮を一本化すべきと提案しているようですが、なかなか会長がウンと言わないとのことです。

 もう一つは弁護士からの話で息子と娘さんがいる高齢者が同様、後妻を迎えてもめております。こちらも副社長までつとめていますのでなかなかの資産があります。いずれにしても両者とも75歳を超えているのですから、ご自身に「もしも」の時が来ることが想像すべきなのですが、なかなかそのあたり後伸ばししています。

  こちらも後妻VS息子+娘の争いになることが目に見えています。実際、披露宴を開催しましたが、息子さんや娘さんは欠席したとのことです。やはり資産を大幅に取られることや後から来た人をお母さんと呼べない心理はよく理解できます。

 2人に共通しているのは目の前の仕事に没頭し、遺産分与についてまったく考えていません。もちろん人によりますが団塊の世代以前の高齢者は仕事が好きな反面、遺産の分与が下手だなと感じています。

 よく大企業同族会社でもお家騒動があり、時々報道されますが、中小同族や資産家の家の騒動はもっと多いです。それはだいたい後妻を迎えたことによることが多く、そして夫が遺産分与を決めず、そのまま亡くなってしまい、後妻と息子や娘の間に一切のコミュニケーションを取らなかったため、大げんかになります。

 これは実は企業だけではなく、実はそこそこ資産のある人にも起りうることです。

お互い弁護士を立てて、戦争状態が続きます。だからこそ、遺産分与は早めに決めた方がいいのです。失敗しますと家も会社もぐちゃぐちゃになります。

 私は不動産の記事も書きますが、それにまつわる人間模様について色々と聞かされます。

 

60歳から始める個人事業主~サラリーマンは仕事の話を家庭に持込むべき

 私はサラリーマン時代、かなり妻に仕事について相談していました。単なる愚痴であったかもしれませんが、妻からすれば会社はいつでも辞めてもいいと私に言っていました。とはいえ、まったく引き籠もられても困りますのでそこは釘を刺されました。ただ、妻は私を評価し、会社を辞めてもこのままでは終わらないだろうと想定していたとのことです。

 「男は仕事の話を家庭に持込むべきではない」

 こんな意見もあります。自分が今、何をしていて会社でどういう立場に置かれているか話さなければ奥さんも不安なのではないでしょうか。ですから、私は率直に話していましたし、会社が政治にどっぷり浸かっていて将来に不安があることも話しました。特定政治家を応援する仕事は正直つぶしが利かないことへの不安があったことも事実です。

 もう1つは、会社全体が高齢化していて、社長をはじめとする側近は80近く、国からの天下り組も70歳を超えることはありませんが、かなり高齢化しています。会社の平均年齢は60歳くらいで、私たちは若手の部類に入っていました。50代で若手というのも凄い会社ですが、社長が高齢化すると従業員も高齢化する方程式があるのです。会社の高齢化も不安の一因でした。

 そこで諸般の事情で退職しましたが、まずライター業を開業するにあたり、何が必要かということで、100円ショップなどで揃えました。妻も同席しつつ、助言しました。退職を伝えた際。驚かなかったですね。いずれは会社を辞めるだろうと想定していても、この人は食べるくらいのことは稼げるに違いないとも確信していたとのことです。

 妻の母親ともコミュニケーションも取っていますが、義母の評価は、「婿殿は不思議な人だ。パソコン1つで食べていける。うちにはいないタイプだ」とのことでした。まあ、もしなんの予告もなく会社を辞めると言うことであれば夫婦も大げんかすることは間違いないでしょう。

 「そんな話は聞いていないわ」と言われることになります。そうすると下手すると離婚になります。50代はいろいろ思うことがあります。役員になれればそれにこしたことはありませんが、その望みがない以上、思った以上に悩むことが多いのです。その際、妻が味方になったので大変心強かったです。

 なので私の考えとしては、「サラリーマンは仕事の話を家庭に持込むべき」です。シニアはまだまだ再生できる道があります。私のように個人事業主に転身してもいいですし、会社に残ってもいいです。ただ、その際、奥さんのコミュニケーションを取らずに、「決めてきた」と言われても納得いかないでしょう。普段から家族のコミュニケーションを高めておけば後の人生も悪くないです。

60歳から始める個人事業主~取材を続けていけば頭がさびることはありません

 元々、前職でも取材する立場でもありましたので、取材する仕事を引き続き、個人事業でも行なっています。私の記事は、私のTwitterで見ることができますのでもしご興味があれば読んでいただけますと嬉しいです。

 私は自分の知識で執筆すると言うよりも、取材し書くスタンスです。というよりもWEBニュースや各編集部からの要望が、「取材した上で執筆してください」というものです。ですから必然的に取材することになります。それについては結構楽しんでいます。

 個人事業主の生き方の良いところは、多くの仕事を行ないますから、吸収力が果てなく続くことです。決まった担当がありませんから、次々と取材し、原稿を編集部に送り、今度はまた編集部に企画を立案します。そして多くの人と会います。

 これが前職であれば一人親方や専門工事業者に限定しておりましたし、私のボスは働き方改革を否定されておりましたのでそれを推奨する取材はできませんでした。とにかく根性による働き方を望んでおりましたので、取材の幅は狭かったです。特にサラリーマンの晩年がイヤであったのは特定政治家を賛美する記事を書かなければならなかったので、それは心底イヤでした。このブログで政治色をほぼ出さないのは、そのせいです。

 それはともかく、個人事業主になって人生は面白くなります。仕事の幅は格段に広くなり、視野が広くなります。やりたい取材も次々と思いつき企画立案し、存分に働き続けられます。疲れたらいつでも休めます。

 個人事業主は出世競争もありませんし、他人と比較することもありません。タイトルでは、「取材を続けていけば頭がさびることはありません」と書いていますが、「取材」の部分は何に置き換えてもいいのです。コンサルでもいいですし、インテリアデザイナー、設計、マンガなんでもあります。

 私は60歳を過ぎたら自由にチャレンジする人生を是非選んで欲しいと思っています。サラリーマンとしてどうしてもその仕事をアナタでなければならないというのであれば別ですが、そういうケースは極めてマレです。だいたいの仕事は代わりはおります。

 私は50代の問題として「働かないオジサン」が多くなっていることです。役職定年もあり、肩タタキもあり、働く意欲が減少していることです。モチベーションが下がっていることも気の毒です。

 「働かないオジサン」を再生する道としてノウハウを活かせるような個人事業主の道もありますし、これからは、自分の好きな仕事をすれば頭がさびることはありません。むしろ、どんどん磨かれていき、楽しい人生が待っていると思うのです。

父が消えた時

 父は長命で80代後半まで存命しました。私が覚えている父は、飽きっぽい人でよく転職している人でした。とはいえ、母親がしっかりしている人で高度成長時代をたくましく乗り切っていました。

 ただ、私から見て父はサラリーマンに向いていません。母の支えがあったからこそなんとかやっていけました。会社で面白くないことがあると、よく酒を飲んでいました。私は両親から遅くに生まれた子ではありますが、父親から可愛がられた記憶もないです。とはいえ、母からは溺愛されましたが。

 どちらかといえば父は姉の才能を買っていたのでしょう。私から見ても姉は優秀ですし、親族からは、「姉は優秀だが、弟はポンコツ」という評価でありましたので、それは私も受け入れていました。

 父が60歳を超えて定年を迎え。個人事業を実施した際、前の会社と似たようなことをやっていたようです。仕事のスタイルは、今の私と同じで個室に籠もって仕事し、お客さんと打ち合わせするときは外出するものです。

 父の健康寿命は想定外に延びて、70歳になると1社下請である会社専属で仕事をし、しかし自分一人きりでは回しきれないので知り合いの老人を集めて、仕事していました。元々、父の実家は農家出身で米俵を担いでいたとのことで体力はあったのでしょう。私は父の健康寿命が長かった秘訣は、農家の出と関係しているのではと思っています。

「一体いつまで仕事を続けるんだ」

 私も姉も同じ事を思っていました。75歳になると相当仕事も減少していましたがそれでもクルマの運転は続けていましたから相当なものです。このあたりから父が仕事を与えていた取り巻きの老人たちも去って行きます。

 この時期、母が亡くなります。この時、父は相当なショックで、葬式の時の父の涙は印象的でした。まあ、溺愛された育った私も泣きましたが。

 父にとって母の死去はショックでしたが、それでもこの頃年収で150万円を稼いでいました。基本、ある会社の課長と親しいというところで仕事の受注をしていました。

 年金プラス150万円ということでそう悪くなかったです。父は恐らく、人間関係が続く限りずっと、仕事をするつもりだったのでしょう。父は80歳で個人事業を閉じましたが、これは恐らく仕事を外注している人との人間関係が切れたかその人が出世したためだと思います。

 ただし、仕事を辞めてから困ったことがあります。父の健康寿命が80歳で相当衰え、介護が必要になりました。実際、認知症というかわけのわからないことも言うようになりました。これは後日描きますが、この時期、私、姉 父の3者で今後のことや遺産について処理案を話し合うようになります。

 実は父の介護については妻が活躍しました。今でも妻には申し訳ないと思っています。介護の苦労については、やった人でないと分からないでしょう。このあたりは私は多くを語りたくありません。

 ただ、当時、父に対して年を取るほどこうも頑固になるのかと悲しくなりました。父とは喧嘩もたくさんしました。

 父が亡くなったとき、私はほっとした感情が湧き出したことを否定はしません。ただし、父が保存していた個人事業の書類をすべて整理した時が本当の意味での父の死でした。父は一応事前に個人事業の廃業届を提出していました。

 その書類の中には個人事業の足跡を見ると私や義兄などを取締役にする構想もあり、法人成りも目指していたようです。父は私に気を使って出版部門も項目に入れることも検討していました。